| ある指揮者の話 [1] |
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俺は深呼吸を繰り返している。 人々のかすかなざわめきが聞こえる。 じんわりと手に汗がにじむ。 この本番前の緊張が何よりも嫌いだ。 さっさと終わらせて、家で温かい夕飯を食べたい。 無言で前にずらりと揃って座っている演奏者達を一瞥する。 俺が頷いてみせると、彼等も頷き返した。 びー、と不細工な音のブザーが鳴る。 幕が上がる前に足元に置いていた指揮棒を手に取った。 そして幕の方に振り返る。 幕が開ききり、痛いほどの人々の視線を感じながら軽く礼をする。 ぱらぱらと気のあるようなないような、よく分からない拍手が鳴る。 真剣な面持ちで楽器を構えるメンバーの方に向き直り、軽く指揮棒を振った。 最初は軽く。 演奏が進むにつれて少しずつ激しくしていく。 こういう、最初はテンポがゆっくりな曲は個人的に指揮がしやすい。 最初から速い曲は演奏前から調子を上げておかないと上手くいかない。 それが面倒だし、必然的に動きも早く体力の消費も激しいため速い曲は嫌いだ。 そんなことを考えつつ無心に指揮棒を振った。 「いやぁ、やっぱりジークさんの指揮は最高ですね!」 演奏が終わり、メンバー数人で並んで道を歩いている時に、メンバーの1人から言われた。 確か先々週に入ってきた新しいメンバーだ。 「今までいろんな人の指揮を見てきたんですが、ジークさんのはその中で1番ですよ!」 お世辞を言うのが特技なのだろうか。 俺は曖昧に返事をした。 新入りはそれからもいかに俺の指揮が素晴らしいかをとうとうと語っていた。 指揮で褒められるのは好きではないので聞き流していた。 「それでですね、現代の指揮者に足りないものをジークさんは備えていると思うんですよ。それで――」 「ほらほら、ちょっと静まれ静まれ。ジーク大明神がお怒りだぞ」 いつまでも話し続ける彼を半ば強制的に止めたのは、古株のメンバーだ。 古株はなかなかの2枚目で、歳は俺と同じ23歳。 話を途中で止められて彼は少しむっとしていたが、先輩の言うことには逆らわない主義なのか、それきり何も喋らなかった。 俺とその古株は仲がよかった。 「ジーク大明神は指揮で褒められるのが大嫌いだからな」 俺のことをよく理解してくれているからだ。 古株は馴れ馴れしく俺の肩にもたれかかってくる。 「ま、今日もお疲れさん。相変わらずの適当ぶりだ」 「早く帰って晩飯が食いたい」 「俺もだ。お前の彼女の料理は美味い」 顔をしかめた。 「また俺のとこで食う気か」 「残念ながら」 彼は大げさに肩をすくめた。 「俺には晩飯を作ってくれる彼女がいないんでね」 「自分で作れ」 「俺が作る飯は核兵器に相当する破壊力を持つ」 「料理本見てきちんとそれに従って作れ」 「そうするぐらいならお前の彼女の飯を食う」 もはやどうあがいても、彼が俺のところで飯を食うのは確定しているらしい。 「勝手にしろ」 苦笑いを浮かべてみせた。 彼の名はシャオ。遠い所から来たと自称している男だ。 家ではドナがご丁寧にも3人分の料理を用意して待っていた。 コンサートをするたびにシャオが押しかけてきているから当然といえば当然だ。 帰りが遅いにもかかわらず彼女は空腹を我慢して待っていてくれていた。 「遅れてごめん」 俺がそう言うと、ドナは可愛らしく微笑んで、 「早く食べないとシチュー、冷めちゃうよ?」 台所の方へ引っ込んだ。 「シチューかぁ。温かくて美味しいよなぁ……」 俺の横にいたシャオは顔をほころばせてさっさと家に上がった。 俺の家なのに彼は好き勝手に行動する。 寒い夜道を経た末に食べる温かなシチューは格別だ。 俺とシャオはその美味さに感激しながら一気に平らげた。 ドナはマイペースにシチューを食べている。 「今日のコンサートはどうだった?」 「今日はまあまあだったかな」 「要するにジー君は今日も適当に過ごしましたと」 シャオは空っぽになったシチューの皿を高く掲げて、 「指揮者とは違い、精魂込めて演奏を遂げた偉大なるバイオリン弾きにもう1杯のシチューを授けたまえ!」 無駄に感情を込めておかわりを要求した。 ドナは笑いながらその皿を取り、手早くシチューを皿に入れて手早くシャオの手元に戻した。 「いやぁ、ドナの料理はホント美味しいな」 「ありがと」 「ジークに飽きたら俺のとこ来いよ。ドナならいつでも大歓迎だ」 「いや、俺に飽きてもこいつのとこだけは行くなよ。いいように利用されるぞ」 「うーん……行くかどうかは飽きたときに考えとく」 ドナは悪戯っぽく笑った。 「よーし、それなら早く飽きるように祈らないとな」 シャオはその場で目を閉じて両手を合わせて祈りだしたが、俺が即座に彼を叩いて祈りを中断させた。 「なんかさ、洗い物してる姿っていいよな。抱きつきたくなる」 洗い物をしているドナの後ろ姿を見ながら、シャオはそう呟いた。 「襲うなよ」 「残念ながら、襲おうにもお前がいるから襲えない」 心底残念そうな声の調子だ。 改めてこの男とドナを2人きりにするわけにはいかないと思った。 ため息をつきながら、部屋の隅に立てかけていたギターを取って適当な安っぽい木製の椅子に腰掛けた。 「お、趣味のギタータイムか」 「そんなところだ」 音叉を片手に調弦を済ませた。指揮とは違いこれは真剣にする。 それから指を早く動かすためのウォーミングアップを済ませる。 「ドナ先生、ウォーミングアップ終わりましたー」 俺はふざけて敬語口調でドナに話しかけてみる。 「よろしい。では少し待っていなさい」 ドナは洗い物が終わったのか、手を拭きながら大仰な口調で答えた。 ドナが台所から戻ってくると同時に、シャオが席を立った。 「じゃ、そろそろ俺は帰る」 俺とドナの顔を交互に見て、にやりと笑う。 「恋人達の甘い時間を邪魔するほど無粋じゃないんでね」 そして俺が何か言う前に颯爽とドアを開けて出て行った。 暫くの間、シャオの捨て台詞を意識してか、お互い無言でいた。 「……えーと、じゃあご教授お願いします」 「あ、はいはい。分かった分かった」 ドナは自分のギターの調弦を手早く済ませ、本棚から初心者用の楽譜を取り出した。 ちなみにドナはギター弾きとして活動しているため、俺より数倍ギターが上手い。 「とりあえず、これは弾ける?」 「ん? ああ、楽勝楽勝」 楽譜を見ずにその曲を完璧に演奏してみせた。 ドナは目を丸くした。 「練習し始めたの一昨日だよね?」 「ああ」 「外出先で練習はしてないよね?」 「ああ」 「ということはさ、晩御飯食べた後のこのちょっとした時間だけしか練習してないよね?」 「ああ」 「……ジーク、指揮よりこっちの方が才能あるんじゃない?」 「そうだったら嬉しいけどなぁ、残念ながらギターで名を売る余裕がない」 大げさなため息をつきながら、もう1度その曲を演奏した。 遊び半分にかなりのハイテンポで。 ドナも同じ曲の違うパートを同じテンポで演奏した。 2つの音色が重なって、ハーモニーが生まれる。 ドナから新しい楽譜を渡してもらい、それを1時間ほど練習した。 その間、彼女は洗濯物にアイロンをかけて畳んでいた。 ギターの練習が終わると、2人掛けのふかふかしたソファーに座り、読みかけの小説を読み進めた。 無名の作家の本だが、かなりの才能を秘めている気がする。 読んでいて、その独特の世界にかなり引き込まれる。 黙々と読み進め、ふと気がつけば横にドナが座っていた。 退屈そうに音楽雑誌に目を通している。 伏目がちな横顔に惹かれた。 「ドナ」 短く呼び、ドナがこちらを向いた瞬間に軽くキスをした。 ドナは目をぱちぱちさせていたが、すぐに恥ずかしそうにはにかんだ。 そんな様子すら、愛しい。 「――何だよ、用って」 女性メンバーを口説いている中呼び出されたためか、シャオの機嫌は最高に悪かった。 その最高に悪い機嫌は、ここ、物置の裏の狭くて暗い空間によって最高を越えて悪くなる。 厳しい顔をしている彼に対し、俺は両手を合わせて頭を下げた。 「手伝ってほしいことがあるんだ」 「何だよ」 懐から数枚の紙を出してそれをシャオに渡した。 「これの第二パートを弾いてくれ」 「今?」 「違う、来週の夜」 「何で俺だけに渡す?」 「俺とお前だけで演奏するんだ」 彼の表情が険しくなった。 「ギターの腕は公で演奏できるぐらいになったのか?」 「まだまだ」 「公の演奏じゃないのか」 「ああ、俺の家で演奏するんだ」 「……ははあ、なるほど」 険しい表情は解け、代わりにいつものにやにや笑いが浮かんできた。 「愛しのドナ嬢への愛情表現だな」 「うるさい」 「顔が赤いぞジーク君」 彼は楽譜をぴらぴら振りながら、来た時とは一転した楽しそうな足取りで場を去った。 「――そうそう、報酬はお前の家の飯2週間分な!」 今月の食費が悲鳴を上げそうだ。 シャオの姿が見えなくなって、俺も練習場に戻ろうと歩き出した。 「……ん?」 足に力が入らない。どんどん力が抜けていく。 がっくりと膝が地に付いた。 一体これは何なんだ、と考えている間に今度は視界が暗くなる。 もしかして、こんな中途半端なところで俺は死ぬのか。神は人が悪い。 ……ところが、人間そう簡単に死なないものなのか、すぐに足に力が戻ってきた。 視力もすぐに回復した。 一体今のは何だったのか。 その場で少し考えたが、ただの眩暈と判断して練習場へ戻った。 眩暈なんかより、これから2週間ドナに隠れてギターの練習をする方が重大だ。 |
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