ある指揮者の話 [side.D]
街の騒々しい雑踏の隅っこで、場所を確保するためのシートを広げた。
何人かは嫌な顔をして通り過ぎていくが気にしない。
折りたたみ式の椅子を広げ、それに腰掛ける。
それからギターを取り出して調弦をする。
ちらと顔を上げると何人かは足を止めているが、すぐに歩き出す。
「今日は誰か、最後まで聞いてくれるかな」
ぽつり、呟く。

頭に入っているプログラムを改めて確認する。
最初はこの曲で、次はこの曲。その次はこの曲で最後はこの曲と順番を確かめる。
普段の公演では演奏する曲は決められていてどうもストレスがたまる。
だからたまに、こうして好きな曲を好きな順で弾いてストレスを解消している。
すうっと深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。
「スタート」
勢いよく弦を鳴らす。




無我夢中で数曲弾き終わると、立ち止まっている人がいることに気付いた。
顔を上げると同年代の男性がこちらをじっと見ている。
男性に見つめられたことは殆どないので自然と頬が赤くなる。
「もう終わりなのか?」
男が訊いてきた。慌てて首を左右に振る。
「あと1曲あります」
ギターをきつく握りなおし、最後の曲を演奏する。

最後の曲はハイテンポな曲で間違えやすいが、何とか間違えずに完奏できた。
顔を上げると男は立ち去っていなかった。聞いてくれていた。
「これで、最後です」
ぺこりと頭を下げると男はぱちぱちと拍手をした。
「ギターの演奏は初めて聴いたが、いいな」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
えへへ、と頭をかいて笑う。
「俺はオーケストラ関係の仕事をしていて、音楽は少し詳しいんだけど、君の演奏は今まで聞いた音楽の中でも特別によかった」
男は微笑む。思わず顔が赤くなる。
赤くなったのは誉められて照れて、だけではない。と思う。
「オーケストラ関係の仕事、ですか」
「ああ。もし興味があるなら、今度聞きに来たらいい」
男はズボンのポケットを探り、くしゃくしゃになっていたチケットを私に寄越してきた。
チケットのしわを伸ばし、楽団の名前を確認する。
あまりオーケストラに詳しくない私でも知っているような、有名な楽団だった。
「ここで働いてるんですか? すごく有名な所じゃないですか」
「そうかな」
「特に、指揮者がすごく良い指揮をするって聞いてます」
「そんなにいいものでもないな」
男は気まずそうに頭をかく。
改めてチケットを眺めて演奏日時を確認する。
「演奏は一週間後、ですか。聞きに行きますね。貴方も演奏をするんですか?」
「まあ、一応」
「何を担当しているんですか?」
「それは、当日のお楽しみ」
男は意地悪そうに笑って、颯爽と人々の雑踏の中に紛れた。
彼の姿を追って、じっと雑踏を眺めた。




一週間後、開演の10分前に会場に着いた。
驚くことに、チケットを係員に見せると貴賓席に座らされた。
ただのギター弾きにこれは不釣合いではないかとあの男に訴えたくなった。
もしあの男が演奏をしている時に変な顔をしていたら、それをタネに少し嫌がらせをしてやろう。
そんなことを考えているうちに時間は過ぎて、豪奢な幕がするすると上がった。

幕が上がりきり、各々の楽器を構えて静かに佇む人々が見えた。
舞台の中央には指揮者がぴんと背筋を伸ばして立っている。
指揮者が客席の方を向いてぺこりとお辞儀をする。
ぱらぱらと気のあるようなないような拍手が起こる。
私も拍手を送るべきだったが、驚いていてそれどころではなかった。
「嘘」
指揮者があの男だった。
私の驚きも無視して、男は指揮棒を振り上げる。




私のオーケストラに関しての知識は限りなくゼロに近い。
だからどこがどう上手いのか具体的には分からなかったが、魂を揺さぶられるような演奏だった。
指揮者がひとたび指揮棒を振れば、音は大きくなり、小さくなり、唐突に切れ、唐突に始まる。
演奏者達の目は真剣そのもので、指揮棒を凝視している。少し怖い。
舞台の上が異様な空気に包まれているように見えた。

「…………?」
異様な空気をよく観察すると、明らかに一箇所だけ空気が違っていた。
舞台を細かく眺めると、指揮者が放つ空気だけが明らかに違う。
演奏者達は真剣で張り詰めた空気を放っているのに、指揮者だけそんな空気はどこにもない。
指揮者の様子をじっと眺めてみる。
専門知識もへったくれもない私が棒の振り方を見ても、それが上手いのかどうかは分からない。
けれども、感じる。

なんて適当な指揮なんだ。
演奏者が奏でる魂の篭った音色とは程遠い、まったくやる気のない空っぽの指揮。
どうしてあの男が優秀な指揮者として名が売れているのか疑問に思う。
「……後で文句を言ってやろう」
腕を組んで目を閉じて演奏者達の素晴らしい音色に耳を傾けた。
あの指揮からこの音が生まれるのかと感動した。




目を閉じていたらいつの間にか眠っていたらしく、肩を揺すられて意識を取り戻した。
心地よく眠っていたのに何故起こすのかと思い、肩を揺すった張本人を睨んだ。
自分と同年代のしっかりした体格の男がそこにいた。とても格好いい顔をしている。
「あ、やっと起きた」
「……私、ずっと寝てた?」
慌てて周りを見渡す。
既に演奏は終わったらしく、客の姿は全くなかった。
ただ、指揮者の男が私の背後でにやにや笑っているのが見えた。
「俺はずっと演奏してたから気付かなかったけど、いつから寝てたかはあいつが知ってる」
演奏者の男は指揮者の男を親指で指した。
「1曲目が終わった頃からだな。それから今までぐっすり寝てた」
「何でそんなこと知ってるの。私なんて見ても何の得もないでしょ」
「だって俺、指揮する気ないし」
「……やっぱり。そうだと思ってた」
「あれ、気付いてた? しかも一曲目で? すげぇ!」
指揮者ではなく演奏者が感動した。
演奏者も適当な指揮に気付いているのか。
「そもそも俺は指揮者になるためにここに来たんじゃない」
「そうだよな。ジークは裏方さんだったもんな」
「そうだ。舞台裏でふざけて指揮をしてたらオーナーに見つかって……」
はあ、と指揮者ジークは深いため息をついた。

「……それにしても、今まで誰も誘わなかったお前が女の人を誘うとは……」
演奏者の男は私とジークを見てにやりと笑った。
嫌な予感がした。とんでもない誤解をされているのではないか。
「ジークにも春が来たんだな」
「え」
「……あのな、こいつは路上で知り合ったばっかりの奴だ」
嫌な予感に限って的中する。
「ふーん……そういや、君の名前は?」
「ドナ」
「ドナ……かあ。今夜暇?」
「え」
もしかしてこれはナンパなのか。
改めて演奏者の顔を見るが、彼となら付き合ってもいいような気がする。
「暇だけど……何か?」
「もしよければ食事でも。美味しい店知ってるんだ」
「……シャオ、俺も行くぞ」
ジークが言葉を挟む。
演奏者シャオは不満さをあからさまに顔に出す。
「何でお前も来るんだよ」
「お前と女性を2人きりにさせるのは危険だ」
「お前は俺の保護者か? 俺のやることに横槍を入れるな」
「お前がどう言おうと、俺はついていくからな」
「普段は折れるくせに、今回はしつこいな。もしかして一目惚れか?」
「違う」
「ふーん……」
シャオはじっとジークの瞳を覗き込む。
「ま、いいや。今日は皆で食いに行こう。ジークの奢りだ」
「ちょっと待て。何で俺の奢りなんだ」
「太っ腹になろうぜ、ジーク大明神」
シャオがジークの肩を軽く叩く。
「太っ腹にならないとモテないぞ、ジーク大明神」
私も便乗してジークの肩を軽く叩く。




こうして、私とジークとシャオは知り合った。
私は最初はシャオに惹かれていた。顔がいいから。
が、彼の性格や言動を知れば知るほどその気持ちは融けて消えた。
シャオへの気持ちが消えると、今度はジークに強く惹かれた。
彼の性格を知れば知るほど魅力的だからだ。

知り合って半年ほど経った頃、ジークに一緒に暮らさないかと提案された。
当時、ジークにはまだ気持ちを打ち明けていなかったので、そう言われてかなりびっくりした。
勿論、快諾した。順序を飛ばしていないかと言いながら。

私はギターの公演をこなしながら、ジークとシャオはオーケストラの公演をこなしながら、ゆっくりと時を過ごした。




冬の本格的な寒さが近づいてきて、ふと思い立った。
温かいシチューを作ろう。きっと喜んでくれる。
今までシチューを作ったことはないけれど、なんとかなるだろう。

シチューを目にしたジークの表情を想像して、顔を綻ばせた。

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