| ある悪魔の話 [1] |
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彼は息を潜めて聞いていた。 さらさらと流れていく砂時計の音を。 全てがガラスで出来ているそれは美しい音を立てている。 その音は彼を柔らかに包み込み、彼の意識を現実から遠く離れたところへ連れて行く。 そこがどこなのかは分からないが、彼はよくそこを訪れた。 ……彼にはそこしか居場所は無かったからだ。 居場所の無い彼は孤独であったが、寂しいとは全く思わなかった。 彼には、心など無いも同然だったのだ。 生まれたときから心が無かったわけではない。 彼は普通の少年だった。 ありふれた幸福な夫婦の子として生まれ、ありふれた幸福な人生を順調に歩んでいた。 だが、ある事件で彼の人生は暗転する。 彼の父が人を殺したのだ。 彼の父はある実業家の秘書をしており、彼の父はその実業家の商売敵を殺害した。 父は無罪を主張したが、裁判所は有罪を宣告した。 この世界では最も重い罪――翼刑を。 翼刑とは、罪人とその家族に特殊装置を埋め込む刑である。 その装置は黒い蝙蝠のような翼を生やす作用を持ち、国民はその翼で罪人を見分け軽蔑する。 装置は翼人の意思で制御でき、翼の出し入れは自由。とはいっても、常に翼を出すことが義務付けられているの。 それだけなら重罪とは言い難いのだが、もうひとつ課されるものがある。 長期間の「洗礼」。 罪人は数ヶ月の間、休み無しで半ば拷問とも言える「洗礼」を受ける。 その「洗礼」で罪人は自分がいかに存在価値が無いか、という意識を叩き込まれる。 「洗礼」の過激さはその意識を叩き込むだけでなく、罪人の心をも壊してしまう。 しかし罪人の心など気にかける者はいない。 翼刑を受けたものは心を失う――それ故に、翼刑は最も重い罪と定められていた。 彼も彼の家族も「洗礼」には必死に耐えた。 最初の数日は耐え抜いたが、一週間もしないうちに心の崩壊は始まった。 悪意に満ちた言葉は彼等の心を刺し貫き、徐々に心は死んでいった。 やがて、数ヶ月も経つ頃には彼らは立派な「翼人」になっていた。 「ちょっと、早く晩御飯作ってよ」 居間の方から伯母の声がして、彼は我に帰った。 砂時計を懐にしまい、台所に立つ。 彼は自分の黒く長い髪をきつくまとめ、ゴム手袋をはめ、マスクをつけて料理に取り掛かった。 ゴム手袋もマスクも、彼は何の疑問も持たずに着けていた。 自分は穢れた存在であるから、その穢れをこの家族にうつしてはならない。 居間からかすかに聞こえてくる音楽を聞きながら、彼は材料を切り始めた。 通常、翼人は工場で労働させられるのが常なのだが、稀に翼人を引き取る家もあった。 そして幸運にも彼は「伯母」の家に引き取られることになったのだ。 彼は心を失った際、記憶の大半も失っていた。 親族の記憶も失っていたため、彼には彼女が本当に伯母なのかは分からなかった。 しかし彼女が本当の伯母なのか、というのはどうでもいいことだった。 彼というごみ以下の存在を欲してくれる。 それだけで、彼は伯母に深く感謝していた。 「ただいま」「ただいまー」 玄関の方から少年と少女の声がした。 彼はそちらに目をやることも無く淡々と料理を進める。 家族を見つめることは堅く禁止されていた。 穢れた目に家族の姿を映すことは、家族に対する冒涜だ。 手早く料理を完成させると、家族の顔は見ないようにしながら居間のテーブルに料理を並べていく。 家族はその間も彼の存在を無視して雑談を続けている。 できるだけ音を立てないように食器を並べ、並べ終えると台所に帰った。 「あなた達、煙草臭いわよ」 「えー、知らなーい」 「あれの臭いじゃねーの? いいかげん水ぶっかけてやれよ」 「そうねぇ、またしなきゃねぇ」 そんな会話を聞きながら、晩御飯に野菜くずを食べた。 晩御飯の洗い物を終えると、彼は伯母と一緒に外に出た。 伯母にたっぷり水の入ったバケツを持たされたので、何をするかは分かっていた。 家の外、広くもなく狭くもない庭の真ん中で伯母は面倒くさそうな声を出した。 「早くしなさい」 彼は服を脱ぎ、伯母から少し距離をとってバケツの水を頭からかぶった。 「ちゃんと乾くまで服を着ちゃだめよ」 伯母はそれだけ言うと、さっさと家の中に戻った。 これで少しは臭さが取れたかな、と白い息を吐きながら彼はほんの少し満足した。 水が乾いて服を着ても、彼は家の中に戻らなかった。 やることが無い時は家の中にいてはならない。家庭の空気を壊してしまう。 庭の真ん中に立って星を眺めて時間を潰した。 「おや、珍しい」 不意に庭の外から声が響いた。彼は反射的に目を向けてしまう。 塀の上に男が立っていた。 長身痩躯でしなやかな雰囲気を全身にまとった、変わった男だった。 「この寒い夜にそんな格好で庭にいるなんて、君はマゾヒストなのかい?」 「……マゾ、ヒスト?」 「知らないの? 驚いた」 けらけらと男は笑う。 明らかに馬鹿にした笑いなのだが、彼は特に気にしなかった。 「君、名前は?」 彼は答えに窮した。 「洗礼」で自分の名前は忘れてしまったし、伯母達が彼を名前で呼ぶことなどない。 「名前は、知らない……」 「知らない? 変だな、君には名前があるはずだよ?」 「洗礼で忘れた」 「……洗礼? 何それ」 男は楽しそうな顔で首をかしげた。 それと同時に、彼は衝撃を覚えた。 洗礼を知らない人がいるなんて、彼には全く予想外のことだった。 「洗礼、っていうのは――」 教えなければならない。 洗礼、そして、自分という存在がいかに無に等しいかということを。 話すということ自体が久しぶりだったので、説明にはずいぶん時間がかかった。 しかしその間、男は真剣に耳を傾けてくれた。時折質問を挟みながら。 「――ふうん、なるほどね」 話し終えると、男は小声で何かをぶつぶつ呟きながらしきりに頷いた。 変な人だなと思うと同時に、彼はその考えを打ち消した。 自分という存在がそんな事を感じてはいけない。 「ちょっと、言わせて貰うけど」 男は塀から身を躍らせて庭に軽やかに着地し、彼の目をまっすぐに見据えた。 「君は心を失ったと思ってるけど、それは間違い。心は眠ってるだけだよ。いつか目覚める」 「え……?」 「そして、心の目覚めはもうすぐさ。その時記憶も戻ってくる」 男はくすくすと笑う。 彼には男が何を言っているのか理解できない。出任せとしか思えない。 「どうして、そんな出任せ……」 「出任せ!」 あはは、と男は大声で笑いだす。 「ひどいな! 俺がそんな人間に見えるかい?」 ひとしきり笑った後、軽やかな動作で再び塀の上に舞い戻った。 「いいかい、俺が言う事は全て真実。嘘なんて言いやしない」 彼の顔の疑問の色を読み取ってか、男は言い足す。 「信じられないなら、予言をしよう。今夜、君はお母さんの夢を見る。その夢をきっかけに君の心は目覚めていく」 「…………」 もはや彼は何も言うことができなかった。 「それじゃあ、またいつか」 男はそれだけ言うと、彼の返事を待たずに塀の向こうへ消えた。 「……おかあさん?」 彼はその言葉が意味するものを思い出せず、首をかしげた。 気がつくと彼はフローリングの床に横になっていた。 夏の暑さとは対照的な床の冷たさが心地よい。 「ちょっと、そんなところで寝ちゃだめよ」 上から声が降ってきて、彼は億劫そうに顔を上げた。 そこには若い女性の姿があった。 「今日はお父さんと動物園に行くんだから、だらだらしちゃだめ」 叱るような口調とは裏腹に、女性の表情は柔らかい。 彼が何も言わずにいると、女性は彼の頬を愛しそうに撫でた。 「ほら、ほっぺたに跡がついたじゃない」 自分の頬に手を当ててみる。確かにそういう感触がする。 女性は頬を触る彼の手を握る。 女性の手の温かさは、幸福の温かさに似ていた。 「――お」 彼が言葉を発する前に、女性の姿が消えた。 代わりに現れたのは、ドアを叩く音とドアノブをがちゃがちゃと鳴らす音だった。 それらの音に紛れて知らない男の声も響く。 何を言っているのかはよく分からないが、良い言葉ではないのは確かだった。 何故だか分からないけれど、体が勝手に震えだした。 「……大丈夫よ」 気がつくと真横にあの女性が座っていた。 先程とは打って変わって顔色が悪い。体も震えている。 彼が女性の手を握ると、女性は彼の体をきつく抱きしめた。 「お父さんは悪いこと、やってない。大丈夫」 ドアが壊れる音が聞こえた。続いて、何人もの男の足音。 男達は彼と女性を引き剥がし、薬をかがせようとした。 彼も女性も必死に抵抗したが、無駄な抵抗だった。 薬をかがされ、意識を失う寸前に彼は叫んだ。 「――――!」 目が覚めても、今日見た夢のことは忘れられなかった。 夢を見ることは本当に久しぶりのことだった。 床の冷たさや自分の頬を触る感触、女性の手の温かさに男達の力の強さ。 全てがリアルに思い出せる。 その中でも、ひときわ色鮮やかに思い出せるのは、男達がドアを開けようとする音だった。 あの音を思い出す度に、体中が震えだす。 翼人になってから今までこんな震えはなかった。 この震えは何だろう。いくら考えても分からない。 彼は伯母達が起きだす時間が近づいてきたので朝ごはんの支度に取り掛かった。 ――震えの正体が「恐怖」という感情だと気付かないまま。 その日から、彼は日常に違和感を覚えるようになった。 どうして伯母達は僕を「もの」のように扱うんだろう? 自分は人間なのに、伯母達は明らかに自分を人間として扱っていない。 家事を行い、残飯処理をするロボット。 そう扱っているとしか思えなかった。 翼人は自分を人間だと考えることは許されていなかったが、彼は自分が人間だと固く信じるようになっていた。 それだけではない。 自分の扱いを不当と感じていた。 最初は不思議に思っていただけだったが、今や苛立ちを感じるようになっていた。 とはいっても、彼はその感情を「苛立ち」と理解していないのだが。 伯母達の扱いによる苛立ちは、砂時計を眺めることで解消された。 砂が流れる音は彼の意識を現実から遠く離れたところへ連れて行く。 真っ白な世界で、温かいものに包まれている感覚。 この感覚は、以前に感じたことがある。 じっと身をゆだねていると、ふとあの女性の顔が浮かんだ。 女性は笑っていた。とても幸せそうに。 女性の顔をもっとよく見ようと目を凝らすと、唐突にその世界はなくなった。 不思議に思ってよく見ると、砂時計の砂が落ちきっていた。 「……おかあさん?」 呼びかけても、砂時計は意味深な輝きを返すだけだった。 |
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